法要・法事

行者山 太光寺(ぎょうじゃやま たいこうじ)

広島市内から瀬戸内海までを一望できる高台に位置し、周囲に自然が溢れる環境に立地しており、和氣殿ならびに萬物殿とともに、広島の一つのシンボルとして、地域交流の拠点となっております。

太光寺
春には桜が咲き、夏には宇品花火大会や宮島花火大会を観ることができます。
広島市内
本堂からは、広島市内から宮島まで一望することができます。

行者山について

約600年前に中国の慈眼禅師が庵をむすんだことより力箭山(りきせんやま)として開眼し、奈良法隆寺より修験道(しゅげんどう)開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)を御本尊とする行者堂を勧請しました。

その後、その庵は曹洞宗海蔵寺として開山し、行者堂はこの地区の密教、修験道道場として発展し、それぞれの霊山である南西の宮島弥山から北東の広島比婆山を直線で結び、南東の愛媛石鎚山から北西の恐羅漢山を結びし二直線の交点たるここ行者山は、修験道にとって重要な霊験聖地であったことがうかがえます。

そして、この修験道の発展により日本古武道も広まり、難波一甫流や神貫流など安芸国を代表する柔術として、宗教を基にした文武両道精神が地元青年に影響を与えました。

御本尊

元亀法難阿弥陀如来御尊像(げんきほうなんあみだにょらいごそんぞう)

約八百年前の平安時代後期に作られ、元は比叡山延暦寺一山寺院千手院にあったとされ、元亀二年(一五七一年)の織田信長の比叡山焼き討ちに際し、比叡山延暦寺の僧侶によって救い出されたと伝来されたものです。

御本尊
元亀法難阿弥陀如来御尊像

織田信長の比叡山焼き討ちで兵火を逃れた約八百年前の阿弥陀如来御尊像

元亀二年九月十二日(四四二年前)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺は、織田信長によって「一山焼き討ち」という法難に合いました。この戦いで『信長公記(しんちょうこうき)』には数千の死者、また『言継卿記(ときつぐきょうき)』によると非戦闘員の男女、子供を含めて三千〜四千名が殺されていたとしています。死者には周辺の比叡山領に住む多くの避難民が含まれておりました。一方、木下秀吉隊の半分は湖上を固め、小舟で逃れる者たちをからめ捕えたとされています。しかし『比叡山(ひえいざん)』によると、陸路の香芳谷を守る木下隊は寛大だったようで、ここから宝物を抱えて山門衆が脱出に成功し、後の国宝に指定される「二十五菩薩来迎図」や「慈恵大師画像」が兵火から逃れられたと伝わっています。
そして、まさにこの兵火から逃れた一人の広島の僧侶が持出した阿弥陀如来像が「元亀法難阿弥陀如来像」(約八百余年前製作)となります。この尊像は、その後現在の庄原市のお寺に御安置されるも更なる法難を逃れ、代々漢方医を生業としていた谷口家に伝わり護持安置されておりました。それから平成廿二年、現在の谷口家御当主谷口茂槻氏によりこの御尊像に「比叡山千手院」という記があることが確認され、御返納遷座の御申出がありました。これにより、現在の比叡山千手院住職であられます小林隆彰大僧正の発願により、幾多の御法難を逃れた阿弥陀如来尊像に知恵と慈悲のおはたらきをいただき、この地広島に於いての「祈り」の信仰として厳に謹んで御請来をいたす次第でございます。

所在地

〒733-0851 広島県広島市西区田方1丁目551番の1

電話: 082-507-5040

FAX: 082-272-7989

名誉住職

比叡山延暦寺 滋賀院 門主 小林隆彰(こばやしりゅうしょう) 大僧正